社長のブログ

元沖縄県知事、大田昌秀氏が12日死去 92歳との新聞報道。伝えてゆくべき事なので記事を抜粋して皆様にお伝えしたい。

知事在任中の1995年に起きた米兵による少女暴行事件で爆発した県民の怒りを背に、政府と対立。沖縄の基地問題に全国的な注目を集めた。米軍用地強制使用を巡る代理署名を拒否。一部用地が使用期限切れになるなど、日米安保体制を揺るがす問題に発展した。日米が合意した米軍普天間飛行場(宜野湾市)の県内移設にも反対を貫いた。

太平洋戦争末期の沖縄戦で、学徒でつくる師範鉄血勤皇隊に動員されたが九死に一生を得た。知事在任中、敵味方を問わず沖縄戦の全戦没者20万人以上の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」を、激戦地の糸満市摩文仁に建立。反戦平和に力を尽くした。

悲惨な地上戦を生き抜いた経験が氏の生涯を方向づけた。「鉄の暴風」と呼ばれるほど激しく撃ち込まれた米軍砲弾に加え、守るはずの住民を壕から追い出し食料を奪う日本兵の姿も目撃。県民の約4分の1が犠牲になった沖縄戦への疑問を膨らませていった。

19歳で「師範鉄血勤皇隊」に動員され、大本営発表を日本兵や住民に伝えて士気を高める「千早隊」の一員として戦場を駆け回った。県史によると、勤皇隊に動員された10代の学徒ら約400人の過半数が戦死。大田氏も米軍の銃撃や飢えをしのぎながら、スパイ疑惑で日本兵に射殺されそうになるなど何度も死線をくぐり抜けた。

日本兵が手りゅう弾で自殺する姿や、敗残兵が食料を奪うために味方同士で殺し合う場面も目の当たりにした。終戦の8月、米軍テントで拾った英文雑誌を読んだ兵長から「日本は戦争に負けた」と知らされた。「英語を理解できない自分の無知と学問の威力を思い知らされた」と言い、研究生活へつながる一生の方向を決めた。

知事選挙運動中にも特攻隊や日本軍の将校を連想させるとしてタスキ、白手袋を使わない徹底ぶりで「子や孫に同じ苦しみを体験させてはいけない」と訴え続けた。

6月23日は沖縄の「慰霊の日」である。